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春日局(かすがのつぼね・1579〜1643)は周知のように、三代将軍・家光の乳母として、大奥で隠然たる勢力を誇った女ボスです。父親の斎藤利三は美濃国の出身、明智光秀の一番の重臣の地位にあり、局はその末娘で本名を福(ふく)と言いました。 光秀は織田信長を本能寺に攻めて自殺に追いやりますが、わずか13日で山崎の合戦で羽柴秀吉に破れた時に、利三は捕らえられ、六条河原で処刑されて栗田口に首をさらされました。逆臣となり、家は没落の憂き目に遭ってしまいます。福は豊臣の時代には逆賊の娘として、不遇な少女時代を送ります。その上、子供の頃に罹(かか)った天然痘の影響で痘痕(あばた)が残り、結婚も諦めていました。たまたま母方の親戚にあたる稲葉佐渡守の後妻になり三人の子供に恵まれましたが、夫の度重(たびかさ)なる浮気に我慢できず、愛人を殺し、そのまま三人の子を置いて家出、京を目指しました。 ところが、豊臣が倒れて徳川の天下になりますと、敵の敵は味方と言うことで一転して明智の家臣に光が当たります。折よく二代将軍・秀忠お江與(えよ)夫妻に男子が生まれ、乳母を募集していました。福は、一度天然痘をやってアバタ顔であったため、天然痘に免疫がある女として、竹千代の乳母には最適と言うことになり、板倉勝重の推薦で採用されました。以来、福は忠実な乳母として竹千代君(家光)に仕(つか)えます。この献身ぶりは誰の追随も許さなかったそうです。 話は戻り、家光の父は二代将軍・秀忠、母は淀君の妹・浅井江與です。二人の間には最初男の子が生まれ、続いて竹千代(家光)が生まれるのですが、竹千代が生まれた途端、最初の男の子が死んでしまいます。すると両親としては、竹千代が生まれたために上の子が死んだような気がして、どうも竹千代に対して愛情を注ぐことができませんでした。 そうこうするうちに、お江與はまた男の子・国松(後の徳川忠長、時代劇でお馴染みの松平長七郎の父)を産みます。すると今度はこちらが死んだ子の生まれ変わりのような気がして、両親の愛は国松一人に集中することになるのです。そのため、江戸城ではなにかと国松が大切にされ、竹千代はその次にされていました。そういう両親の態度を見た福は、このままでは世継ぎは竹千代を差し置いて国松になってしまう、と危機感を覚え、駿府(静岡)に隠居中の家康に直訴することを考えます。しかし当時は、入鉄砲・出女の規制の掛っていた頃で、女性は勝手に江戸を出ることは不可能でした。 そこで彼女は、お伊勢参りに行くという口実を思いつきます。そして、江戸を出ると家康の所へ駆け込みました。話を聞いた家康は、すぐに行動を起こします。 突然の大御所(家康)の来城に秀忠は慌てます。とにかく上座を勧めて、挨拶などを交わすのですが、「孫の顔が見たくなってのう」などと家康はとぼけた顔で言います。そこで竹千代と国松が呼ばれるのですが、家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ、隣りに座らせます。すると国松も一緒に側に寄ろうとしますが、ここで家康は厳しい言葉を投げます。 「長幼の儀礼をわきまえないとは何事か、竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ」と。そして家康は、畏(かしこ)まる秀忠に一言声を掛けるのです。「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう」。この家康の鶴の一声により、将軍家を継ぐのは竹千代と決定したのです。 このことにより福は家光の信任を得、やがて元和9年(1623)に家光が将軍に就任し、寛永3年(1626)にお江與が亡くなると大奥を一手に任されることになり、江戸時代の大奥政治に先鞭(せんべん)をつけたのでした。 忠義一途の女性として賛美された春日局ですが、その陰に見えかくれするのは、女性特有のエゴ剥き出しの教育ママ的思考で、三人の我が子を捨てて家出をし、将軍の乳母に情熱を傾け、やがて将軍を動かし権力の座に就くなどしたたかに身を処した、江戸の女性の見本であったとみることもできます。 東京都文京区湯島四丁目・麟祥院蔵 春日局木彫像 |
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