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豪徳寺…招きネコ発祥の地
豪徳寺…招きネコ発祥の地    ペットブームが叫ばれて久しくなりますが、世の中はイヌ派とネコ派に大別できます。いったん好きになってしまうと、イヌならイヌ、ネコならネコに関連するグッズなどを何から何まで欲しくなってしまうものです。そんな人たちの中で、ネコ派の人なら一度は散策に訪れてみたい寺院があります。それが世田谷に位置する豪徳寺です。  寺院の名が駅名に反映されるケースがありますが、豪徳寺もその一つ。小田急線に豪徳寺駅が設けられており、その近辺に豪徳寺という町名が広がっています。豪徳寺のそばには、都内では珍しい存在と... ...続きを見る

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2011/10/26 18:00
長塚節『土』…野田市
長塚節『土』…野田市    長塚節(ながつかたかし・1879-1915・茨城県生れ)の代表作『土』は明治四十三年(1910)六月から十一月まで「朝日新聞」に連載されました。節が三十一歳の時の作品で、今もなお農民文学の最高峰として文学史の一ページを飾っています。この小説は野田市が本舞台ではありませんが、主人公勘次の妻の義父卯平が野田の醤油蔵で火の番をしていたことから、醤油の町が描かれています。    「卯平は七十一歳の親爺(おやじ)であつた。一昨年(おととし)の秋から野田の醤油蔵へ火の番に傭(やと)はれた。……野... ...続きを見る

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2011/09/16 18:00
蒲原有明『海の幸』…館山市布良海岸
蒲原有明『海の幸』…館山市布良海岸  布良(めら)は古くからの漁師町です。館山駅から南へ十二`、南房総市白浜町に隣接した美しい町。特に夕映えは見事で、太平洋に迫り出た段丘も海も、黄金色に燃えたちます。この布良海岸と逞(たくま)しい漁夫らの群れを描いた名画『海の幸』は、明治洋画壇の鬼才青木繁(1882-1911)の作品です。 ...続きを見る

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2011/08/20 13:59
森鴎外『妄想』…大原町日在海岸
森鴎外『妄想』…大原町日在海岸  夷隅川を渡ると大原町(現いすみ市大原)です。町に入ってすぐ左に折れれば眼前は日在(ひあり)の海岸、砂浜は静かな松林に囲まれています。ここに明治の文豪森鴎外の別荘「鴎荘」がありました。現在のそれは当時の建物ではなく、鴎外の三男森類(るい)氏が、平成2年頃に白い2階建ての洋風の家に建て直したものです。鴎外はこの別荘で思想小説『妄想』を執筆し、「三田文学」に発表しました。明治四十四年(1911)の春、五十歳の時でした。 ...続きを見る

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2011/07/31 11:00
自由学園明日館…羽仁もと子
自由学園明日館…羽仁もと子  建築に多少なりとも興味がある人なら、アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)の名をご存知かもしれません。有機的建築という理論を提唱し、アメリカ中西部の草原住宅と呼ばれる傑作をはじめ、アリゾナにあるライトの根拠地タリアセン・ウェスト、ニューヨークのグッゲンハイム美術館など多くの優れた建築物を残した巨匠です。  日本では旧帝国ホテル、兵庫県芦屋市の旧山邑邸(きゅうやまむらてい・1924年竣工・国指定重要文化財)の設計で知られますが、ホテル建設のために来日している間に、ある... ...続きを見る

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2011/06/25 18:00
『春』…島崎藤村
『春』…島崎藤村  百十五年前の明治二十九年(1896)一月二十五日から十日間、島崎藤村は嫂(あによめ)と房総に遊びました。藤村が二十五歳の時でした。その日、藤村は明治女学校で同僚教師だった小此木忠七郎を富津に見舞ったあと、一人で鹿野山を越えて小湊誕生寺に向かいました。その時の心情が、自伝的告白小説『春』に描かれています。 ...続きを見る

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2011/05/27 19:00
百草園…若山牧水
百草園…若山牧水     明治、大正から昭和にかけて、全国を旅し、旅に明け暮れ、生涯に約 8,700首の短歌を詠み、全国に 259基の歌碑が建てられているといわれる若山牧水は、今なお広く国民的支持を得て親しまれています。  多摩・百草園内には、生誕百年を記念して昭和60年に建てられた歌碑があります。ここには歌集『独り歌へる』から、牧水の長男で歌人である若山旅人が一首選び揮毫した、次の歌が記されています。 ...続きを見る

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2011/04/29 18:00
大川の水…芥川龍之介
大川の水…芥川龍之介  自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉に掩はれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、直ぐあの幅の廣い川筋の見渡される、百本杭の川岸へ出るのである。幼い時から、中學を卒業するまで、自分は殆毎日のやうに、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮してゐるあわたゞしい人々の生活とを見た。眞夏の日の午すぎ、燬けた砂を踏みながら、水泳を習ひに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおひも、今では年と共に、親しく思ひ出されるやうな氣がする。  自分はどうして、かうもあの... ...続きを見る

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2011/03/26 13:00
神楽坂
神楽坂  神楽坂の風情を楽しむためには、JR総武線の飯田橋駅の西口からスタートするのが良いかも知れません。改札を出て右側に向かうと、外濠と並行して走る外堀通り越しに神楽坂がまっすぐ上り坂となって伸びています。春は外堀通り沿いの桜並木が、特別な花道へと変えてくれます。新緑の季節はすがすがしい気持ちに、秋はシックなセピアの世界にというぐあいに、神楽坂へ散策に向かう人の気持ちを静かに高揚させてくれます。  飯田橋駅を出て神楽坂を見上げると、その勾配を実感するでしょう。実際に歩いてみると、かなりの急勾配である... ...続きを見る

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2011/02/26 11:00
人形町…向田邦子
人形町…向田邦子    『人形町に江戸の名残を訪ねて』   一度も行ったことはないのに、妙に懐しい名前がある。私にとって、人形町と蠣殻町(かきがらちょう)がそうであった。  私は東京山の手の生れ育ちだが、母がみごもると、母の実家では人形町の水天宮へ安産のお札を貰いにゆき、おかげで私をかしらに姉弟四人がつつがなく生れたと聞かされて育った。  物心つくようになっていたずらをすると、祖母は、  「蠣殻町の」  と言いながら私の手の甲を爪で掻き、  「豚屋のおつねさん」  軽く撲(ぶ)ってからつねり上げたも... ...続きを見る

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2011/01/15 10:00
斉藤信夫『里の秋』…山武市成東
斉藤信夫『里の秋』…山武市成東  「童心をはなれて童謡はない。私は十二歳に戻って詩作に耽る。」 と語っていた童謡詩人、斉藤信夫(1911-1987)は現在の「山武市五木田」、当時の山武郡南郷村五木田の出身です。その代表作に童謡『里の秋』があります。                           静かな静かな 里の秋                        お背戸に木の実の 落ちる夜は                        ああ 母さんとただ二人                        栗の... ...続きを見る

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2010/11/14 10:00
浅草寺  『放浪記』…林芙美子
浅草寺  『放浪記』…林芙美子  (三月×日)  えてうららかな好晴なり。ヨシツネを想い出して、公休日を幸い、ひとりで浅草へ行ってみる。なつかしいこまん堂(駒形橋のたもとにある駒形堂)。一銭じょうき(小型蒸気船)に乗ってみたくなる。石油色の隅田川、みていると、みかんの皮、木裂(こっぱ)、猫のふやけたのも流れている。河向こうの大きい煙突からもくもくと煙が立っている。駒形橋のそばのホウリネス教会。あああすこはやっぱり素通りで、ヨシツネさんに逢う気もなく、どじょう屋にはいって、真黒い下足の木札を握る。籐畳に並んだ長いちゃぶ台と、木... ...続きを見る

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2010/10/23 11:00
銀座「カフェ・プランタン」…森茉莉
銀座「カフェ・プランタン」…森茉莉  『帝劇から、真暗な中にお堀端の柳が仄かに見え、その後(うしろ)にお堀の水が暗く、黒く沈んでいる外に出た、真白な帽子のお化けのような子供と、黒い、長いマントォの下から出た仙台平(せんだいひら・男性用の絹の袴地)の袴をシュル、シュルとならし、黒檀(こくたん)の太い洋杖(ステッキ)を突いた男との二人連れは、日比谷公園の角を曲って銀座に出た。ここにも暗い中に柳が暈(ぼんや)りと立ち並び、土や雨に湿った木煉瓦(もくれんが)の舗道が続いている。明治の銀座は暗く、店々の黄金色(きんいろ)の電灯の光が洩れ、微... ...続きを見る

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2010/10/01 18:00
渋谷・道玄坂…与謝野鉄幹・晶子
渋谷・道玄坂…与謝野鉄幹・晶子  与謝野鉄幹(1873〜1935)は、本名を寛といい、京都市外岡崎村にお寺の四男として生れました。父親の事業の失敗でお寺は転売の憂き目にあい、その後、彼は親元を離れてあちこちを転々として暮らすことになります。山口県徳山市にある徳応寺では、寺内にあった徳山女学校で国漢の教員として勤めています。十二歳のころから漢詩を作り始め、また万葉集にも親しんでいます。明治二十五年(1892)に上京、そして、そのころ和歌の革新運動を繰り広げていた落合直文の門下に入りました。直文は近代短歌結社の草分けである「浅香社... ...続きを見る

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2010/09/18 11:00
徳冨蘆花『青山白雲―秋の水国』…佐原水郷地帯
徳冨蘆花『青山白雲―秋の水国』…佐原水郷地帯  佐原(旧佐原市・現香取市佐原)は水郷の表玄関です。日本のベニス(ベネチア・イタリア北部)とも呼ばれ、周りはすべて水、ほとんど小舟で往来していました。ここ水郷には、古くから多くの文人墨客が訪れ、すぐれた作品を残しています。中でも、孤高の文学者、徳冨蘆花(1868-1927)は二度も訪れ、「水国の秋」「雨の水国」の二編を書いています。 ...続きを見る

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2010/09/05 10:00
津島美知子…慟哭の声
津島美知子…慟哭の声  石原(津島)美知子(1912〜1997)は島根県に生まれ、父の転勤に伴って山形県や広島県を転々と移り住み、大正11年に父祖の地である山梨県甲府市に戻り、山梨県立甲府高等女学校から東京女子高等師範学校文科(現・お茶の水女子大学)を卒業し、山梨県立都留高等女学校で教壇に立ち、地理と歴史を教える傍ら、寮の舎監を兼任しています。  太宰との縁談が起きた昭和13年、大学に在学する女子学生は124人(官立49人、私立75人)で、そのうち東京帝国大学に学ぶ者は3人でした。そうした世の中で東京女高師は事実上... ...続きを見る

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2010/08/01 11:00
山崎富栄…地上の別れ
山崎富栄…地上の別れ              さびしさの極みに堪へて天地(あめつち)に 寄する命をつくづく思ふ      伊藤左千夫   ...続きを見る

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2010/07/26 19:00
山崎富栄・運命の出会い…三鷹市
山崎富栄・運命の出会い…三鷹市  山崎富栄は、わが国で最初の美容学校である東京婦人美髪美容学校を御茶ノ水に設立した山崎晴弘・信子夫妻の次女として、大正八年(1919)に本郷(現・文京区)で生まれました。幼いころから容姿に恵まれ、美しく愛らしかったので、美容学校の生徒たちにもずいぶん可愛がられたそうです。  大正二年に創立され、お茶ノ水美容学校という通称で呼ばれる学校が、昭和二年に地上三階、地下二階の近代的な鉄筋コンクリートの校舎に改築されたときには、在校生が八百名に達し、それまでの卒業生は実に六千人を超える盛況でした。 ... ...続きを見る

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2010/06/06 10:00
平林たい子『結婚』…香取郡多古町
平林たい子『結婚』…香取郡多古町    成田からバスに揺られて約四十分、畑の中の長い坂道を下り切ると、やがて多古町に着きます。見渡す限りの田園地帯です。  「そのころ成田から出ていた軽便鉄道は玩具のようで、汽車がカーブに曲るときには、客がとび下りて立小便してまたとびのっても間に合うのだと安田にきかされていた。糸子はうろ覚えで、成田を降りて多古という切符を買った時、汽車は話しにきいたより尚小さくて、棚に夜のあかりのランプがのっていた。破れた腰掛からむき出しているのは、世帯じみた普通の蒲団綿(ふとんわた)だった。多古で降りるとき... ...続きを見る

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2010/05/20 19:00
志賀直哉『雪の日』…我孫子市手賀沼
志賀直哉『雪の日』…我孫子市手賀沼  我孫子は古くからの木綿の産地です。JR常磐線で来れば、上野から約30分。東京に近いわりには静かで、落ち着いた町です。桜並木を下ると、やがて眼前に手賀沼が広がっています。 ...続きを見る

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2010/02/13 11:00
ニコライ堂
ニコライ堂  JR総武線の御茶ノ水駅を降り、駿河台から神保町界隈へとゆるやかに下って行き、神保町の古書店街へと至る幾筋かの道路の周辺は、かつては大学生や文化人が本を求めて歩く姿が似合う街並みでした。そのため、学生中心に文化の香り高い雰囲気にあふれていたことから、いつしかパリのカルチエラタン(ラテン区・パリの中心部、セーヌ川左岸の学生街)を意識した、「日本のカルチエラタン」と呼ばれるようになりました。  そのような文化の香り高い街並みを形成するのに貢献していたのが、明治から大正、昭和初期にかけて建設され... ...続きを見る

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2010/01/01 11:00
男の中の男・白洲次郎…V
男の中の男・白洲次郎…V    この辺で、白洲次郎の人気の秘密でもある趣味の世界に話題を転じて…。次郎の酒好きは有名です。次郎は生前、本場のスコッチ・ウィスキーを親友のストラトフォード伯爵から送ってもらっていました。それは伯爵が、スコットランドの蔵元から熟成したスコッチ・ウィスキーの原酒を樽ごと買取り、伯爵の広大な邸内で寝かせ、頃合いを見計らって送ってくる絶品でした。幸運なことに、たまたまこれを次郎から飲ませてもらった映画監督の大島渚は、随筆の中で何度もこの時の経験を綴っていますが、表現力の人一倍あるであろう大島監督... ...続きを見る

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2009/12/06 11:00
男の中の男・白洲次郎…U
男の中の男・白洲次郎…U                   東京都町田市能ヶ谷町 旧白洲邸『武相荘(ぶあいそう)』     一方、次郎の表の顔は、日本水産の役員として、日本とヨーロッパの間を年に二回も往復する生活でした。しかし、会社勤めは太平洋戦争勃発の一年前にやめ、町田市鶴川に居を構え、専業農家になろうとするかのように、一生懸命農業に打ち込む毎日を送っています。一方吉田茂も、その自由主義的発言や親米派ということで軍部から睨まれ、大磯に逼塞しています。しかし、それでも特高は吉田を逮捕し中野刑務所に収監しましたが... ...続きを見る

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2009/12/05 17:00
男の中の男・白洲次郎…T
 白洲文平(1869〜1935) の次男で、吉田茂(1878〜1967)の懐刀としてサンフランシスコ日米講和条約締結の影の立役者となったのが、明治三十五年(1902)二月十七日に兵庫県に生まれた白洲次郎でした。祖父白洲退蔵の家系は、孫の白洲次郎に至って花開きました。…もっとも、現在では次郎の妻である正子の方が有名かも…  神戸一中時代の次郎の同級生である今日出海(初代文化庁長官)は、『野人・白洲次郎』というエッセイの中で親しみを込め、白洲の特徴として《背が高い、訥弁、乱暴者、短気》の四点を挙げ... ...続きを見る

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2009/12/03 19:00
痛快! 白洲次郎
痛快! 白洲次郎    「我々日本は、戦争に負けたが、奴隷になった訳ではない!」とマッカーサー元帥に一喝した男、この誇りある日本人こそ「白洲次郎」です。 ...続きを見る

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2009/12/01 12:00
野口雨情『証城寺の狸ばやし』…木更津市証誠寺
野口雨情『証城寺の狸ばやし』…木更津市証誠寺  十月十七日、木更津の証誠寺で狸供養が行なわれます。野口雨情の童謡『証城寺の狸ばやし』で知られた寺です。同寺は木更津駅から西南に向かって約二q、旧国道沿いの矢那川べりにあります。東京湾岸(船橋〜富津)で唯一の浄土真宗であると言われております。今日では市街地の一角にありますが、一昔前には鈴森と呼ばれる狸の出そうな深い森につつまれていました。大正八年の夏、雨情は初めて訪れた木更津で狸ばやし伝説を聞き、童謡『証城寺の狸ばやし』をつくりました。 ...続きを見る

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2009/10/01 19:00
加藤まさを『月の沙漠』…御宿海岸砂丘
加藤まさを『月の沙漠』…御宿海岸砂丘  幼い日、だれもが口ずさんだ童謡『月の沙漠』は、南房総御宿海岸の流麗な砂丘を舞台にして生まれました。        月の沙漠を、はるばると 旅の駱駝はゆきました。   金と銀との鞍おいて 二つならんでゆきました。   金の鞍には銀の甕 銀の鞍には金の甕。   二つの甕は、それぞれに 紐で結んでありました。   さきの鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様。   乗った二人はおそろいの 白い上衣を着てました。   曠い沙漠をひとすじに、 二人はどこへゆくのでせう。   朧にけぶる月... ...続きを見る

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2009/09/01 12:00
竹久夢二『宵待草』…銚子市海鹿島(あしかじま)
竹久夢二『宵待草』…銚子市海鹿島(あしかじま)  夢と憧れに生きた抒情詩画人、竹久夢二も房総に魅せられた一人です。とくに銚子の海岸は夢二の詩心をかきたてたらしく、三回も訪れています。なかでも三度目は、明治四十四年八月二十九日から九月六日までの長期滞在でした。この時、『宵待草』の詩想が生まれたと言われます。舞台が九十九里町小関納屋地先きの作田川岸にも詩碑が建てられていますが、九十九里説は割愛します。そして、大正二年十一月『実業之日本社』発行の『どんたく』に、原詩の八行詩を三行詩に改作して掲載されました。     「宵待草」原詩    ... ...続きを見る

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2009/08/01 15:15
佐藤春夫『犬吠岬旅情のうた』…銚子市犬吠埼
佐藤春夫『犬吠岬旅情のうた』…銚子市犬吠埼                            『犬吠岬旅情のうた詩碑』 ...続きを見る

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2009/07/01 20:00
伊藤左千夫『野菊の墓』…松戸市下矢切
伊藤左千夫『野菊の墓』…松戸市下矢切                             小説「野菊の墓」初版本 ...続きを見る

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2009/06/14 15:00
太宰治『黄金風景』…船橋市宮本町
太宰治『黄金風景』…船橋市宮本町  この夾竹桃は、太宰治(明治四十二年〜昭和二十三年)が、昭和十年夏から昭和十一年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番(船橋市宮本町一丁目十二番九号)に借家住まいをしてた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和五十七年十二月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された貴重な生き証人です。 来月(六月)十九日は桜桃忌、市民文化ホール前広場の太宰治ゆかりの夾竹桃です。    「ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養を... ...続きを見る

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2009/05/01 13:00
芥川龍之介『海のほとり』…一宮海岸
芥川龍之介『海のほとり』…一宮海岸                             芥川龍之介は二度、一宮海岸を訪れました。はじめは大正三年七月二十日、東京府立三中(現両国高校)、一高時代の友人堀内利器に誘われて、堀内家の知人で渡辺という商家に泊ったときでした。一宮は堀内の故郷でしたが、実家が火災で母屋を失っていたため、龍之介を知人宅にあずけました。二度目は、東大英文科を卒業した年の大正五年八月十七日から九月二日まで、久米正雄と一緒に海岸近くの旅館「一宮館」の離れを借りて滞在しています。この時の思い出が九年後に発表した、... ...続きを見る

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2009/04/01 19:00
夏目漱石『こころ』…鋸南町保田
夏目漱石『こころ』…鋸南町保田  保田は古くからの漁師町です。南房総国定公園に属し、内房最大の海水浴場や鋸山など自然に恵まれた景勝地で、古くから多くの文人が足を運びました。  夏目漱石もその一人で、彼は二十二歳の明治二十二年(1889)八月、旧制第一高等学校の学友四人と一緒に約三週間、鋸南町保田から富浦・那古・小湊を旅しました。特に鋸山の山すそにある日本寺の五百羅漢には心打たれたようです。その紀行漢詩文『木屑録』を書いて、松山の正岡子規に送り批評をもとめました。   ...続きを見る

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2009/03/01 17:00
山本有三『真実一路』…いすみ市大原
山本有三『真実一路』…いすみ市大原  真実一路の旅なれど  真実、鈴ふり、  思い出す。      (北原白秋『巡礼』) ...続きを見る

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2009/02/18 11:15
北原白秋『雀の卵』…市川市真間
北原白秋『雀の卵』…市川市真間  葛飾野には、古い歴史を誇る寺院が多くあります。亀井院という日蓮宗の寺院もその一つで、天才詩人北原白秋が寄寓した寺院として知られています。白秋がここに移り住んだのは大正五年(1916)五月半ば三十三歳の時、二度目の妻江口章子を迎えたばかりでした。この葛飾真間を舞台にした短歌数首が、歌集『雀の卵』に所収の「葛飾閑吟集」におさめられています。        葛飾の真間の手兒奈(てこな)が跡どころその水の辺のうきぐさの花  堪えがてぬ寂しさならず二人来て住めばすがしき夏立ちにけ... ...続きを見る

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2009/02/11 11:11
国木田独歩「驟雨」…東金市
国木田独歩「驟雨」…東金市  明治の文豪、国木田独歩は四歳まで銚子の激浪にぬれて育ちました。その出生は未だ秘密のベールにつつまれています。独歩は生涯、その生地を六回訪れています。明治三十年(1897)以降は、両親が銚子に移住したこともあり、しばしば足を運んでいます  最初の旅は、独歩が二十三歳の明治二十六年五月二日から五日間、東京をたって千葉を経由し銚子に至る徒歩の旅でした。本所(現錦糸町)〜佐倉間の鉄道敷設が翌年のことでした。徒歩の長旅は難行苦行であったに違いありません。果して独歩は、草鞋(わらじ)で足を痛め、三日目の... ...続きを見る

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2009/02/07 11:00
高村光太郎「智恵子抄」…九十九里町真亀海岸
高村光太郎「智恵子抄」…九十九里町真亀海岸  高村光太郎の第二の故郷、真亀海岸は九十九里浜のほぼ中央にあります。古くから海水浴場として知られ、九十九里浜には田村別荘跡の「智恵子抄碑」(平成10年4月)の他に、地元の白涛俳句会や草野心平らによって建てられた「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑(昭和36年7月)が建っています。場所は、国民宿舎「サンライズ九十九里」の裏手になります。 ...続きを見る

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2009/02/01 10:00
理想の結婚…光太郎・智恵子
理想の結婚…光太郎・智恵子  「僕は丁度自然を信じ切る心安さで/僕等のいのちを信じてゐる/そして世間といふものを蹂躙してゐる/頑固な俗情に打ち勝つてゐる」(「僕等」)とあるように、智恵子と結婚する上で、まず最初に乗り越えなければならない難関は、家族制度の軛(くびき)でした。長男であった光太郎にとって、それは容易なことではなかったはずです。家督相続権を弟の豊周に譲ること、別個に家を構えて智恵子と二人だけの生活を始めること、それが光太郎の選んだ道でした。父光雲の困惑は想像に余りあるものがあります。  高村豊周の『定本光太郎回... ...続きを見る

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2009/01/25 13:59
運命の出会い…長沼智恵子
運命の出会い…長沼智恵子  〔邂逅〕  長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であった。女史は私の紐育時代からの友人であった画家柳敬助君の夫人で当時桜楓会の仕事をして居られた。どうなる事か自分でも分からないような精神の危機を経験していた時であった。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまい、ただ私の作品を見て、お茶を飲んだり、フランス絵画の話をきいたりして帰ってゆくのが常であった。そのうち私は現存のアトリエを父に建ててもらう事になり、明治四十五年には出来上がって、一人移り住んだ。彼女はお祝いにグロキシ... ...続きを見る

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2009/01/12 13:13
新しい女…長沼智恵子
新しい女…長沼智恵子   高村光太郎と長沼智恵子が初めて会ったのは、明治四十四年(1911)十二月のことでした。その時のことを光太郎は、「柳八重子女史の紹介で初めて知るやうになり」(「智恵子の半生」)と書いています。柳(旧姓橋本)八重は日本女子大学校国文学部の第一期生で、その年四月に光太郎の友人で洋画家の柳敬助と結婚していました。柳八重は二人の出会いの様子を、次のように語っています。    カットをかいてもらうなどで智恵子さんと親しくなつたわたしに柳は、友人の高村光太郎氏智恵子さんをあわせたら、といいました... ...続きを見る

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2009/01/05 15:15
画学生…長沼智恵子
画学生…長沼智恵子  明治四十年(1907)四月、日本女子大学校家政学部を卒業した智恵子は、そのまま東京にとどまって、太平洋画会研究所で油絵を学ぶことになります。数えで二十二歳の年のことです。卒業生の寮である楓寮に入った智恵子は、翌年に楓寮が閉鎖されたため小石川区小日向台町に一戸建ての家を借りて、そこから太平洋画会研究所に通っていました。上野動物園下の下谷区谷中真島町にあった研究所は、絵画部に石井柏亭・中村不折などの指導者を擁して、どちらかといえば貧しい画学生や働きながら学ぶ者に堅実な画風を教えていました。  数... ...続きを見る

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2009/01/03 13:11
日本女子大学校入学…長沼智恵子
日本女子大学校入学…長沼智恵子                                                                                 智恵子が学んだ 成瀬記念講堂 ...続きを見る

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2009/01/01 11:11
和歌…樋口一葉
和歌…樋口一葉        月かげももらぬ斗に岡のへの きぎのこずゑはしげり合にけり ...続きを見る

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2008/12/24 12:00
奇跡の十四ヶ月…樋口一葉
奇跡の十四ヶ月…樋口一葉  樋口一葉は明治五年三月二十五日、下級官吏の次女(戸籍名なつ)として誕生しました。父は則義といい、もともと甲斐の農民の出で、妻(一葉の母・たき)とともに江戸へ出てきた後、働いて武士の株(武士になるための権利)を購入して武士となった身でした。維新後は役人になり一家を支えていたのです。そのおかげで一葉は、安定した少女時代を送ることができました。  学業の面でも並々ならぬ才能を持っていたようです。幼児より読書に親しみ、当時の小学校にあたる学校を優秀な成績で進級していました。しかし、女子に学問... ...続きを見る

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2008/12/17 12:00
私塾・萩の舎入門…樋口一葉
私塾・萩の舎入門…樋口一葉  樋口一葉が小石川の私塾・萩の舎に入ったのは、明治十九年(1886)、十四歳の時でした。彼女はここで和歌、書、古典文学を学びました。主宰の中島歌子は水戸の勤皇派・林忠左衛門の未亡人で、加藤千浪門下の歌人でした。千浪(ちなみ)没後、歌子は宮中御歌所派の小出粲(つばら)・高崎正風らの支援で塾を開き、門弟には皇族、華族、高官の令嬢や夫人が多く、一葉が入ったころ門下千人と言われ隆盛だったようです。  一般に言われるほど、一葉の生涯はいつも貧困に彩られていたわけではなく、当時の父は警視庁に在職し、不... ...続きを見る

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2008/12/12 12:00
転居16回…樋口一葉
転居16回…樋口一葉  樋口一葉は二十四年という短い人生の間に、なんと十五回もの引っ越しをしています。当時は今のようにお金はかからないにしても、引越し癖や放浪癖のある男ならともかく、二年に一回となると、尋常ではない彼女の生活の困難さが透けて見えるような気がします。その十五回の引っ越しと、寄宿一回の記録…。 @千代田区内幸町2丁目 (旧東京府第2大区1小区内幸町1丁目1番屋敷東京府構内長屋) A千代田区神田練塀町 (旧第5大区4小区下谷練塀町43番地) B港区六本木3-14 (旧第2第区6小区麻布三河台... ...続きを見る

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2008/12/10 12:00
大奥に先鞭…春日局
大奥に先鞭…春日局  春日局(かすがのつぼね・1579〜1643)は周知のように、三代将軍・家光の乳母として、大奥で隠然たる勢力を誇った女ボスです。父親の斎藤利三は美濃国の出身、明智光秀の一番の重臣の地位にあり、局はその末娘で本名を福(ふく)と言いました。  光秀は織田信長を本能寺に攻めて自殺に追いやりますが、わずか13日で山崎の合戦で羽柴秀吉に破れた時に、利三は捕らえられ、六条河原で処刑されて栗田口に首をさらされました。逆臣となり、家は没落の憂き目に遭ってしまいます。福は豊臣の時代には逆賊の娘として、不遇な少女... ...続きを見る

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2008/12/08 19:00
皇居外苑は海だった?!
皇居外苑は海だった?!   嘘のような本当の話ですが、皇居外苑や日比谷公園一帯は、徳川家康の入府当初、丸の内と霞が関に食い込んだ入江状の海だったそうです。その外側に半島状の洲浜がのびていたらしく、そこでは海苔がよく採れ、胞子を付着させるため、枝付の竹を並べ立てる手法を用いたそうです。  室町中期の武将・太田道灌(江戸城を築く・上杉定正に謀殺・1432〜1486)は、海を攻防に活用したいと考えたと言われます。時は移り、家康は海より土地の活用が大切だと判断し、慶長8年(1603)の将軍宣下(... ...続きを見る

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2008/06/20 18:38

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